日本に帰りたくないからしがみついた結婚。。。
ポピーさんが、ニュージーランドに住んでいた時の話。
中国人の旦那さんが、ポピーさんを向かい入れ、思いもよらぬ二人の女の子の母親になったポピーちゃんは、この新しくできた家族の心の距離、そして娘さんたちが失ってしまった大人への信用を再構築しているようでした。
実の母親が、仕事で忙しくなったので娘たちがいらなくなったというのです。
はい、どーぞ、って。
しかも、家の中での言語は中国語。ポピーさん一人、何もわからず仕舞いでした。
子どもたちは、大人の都合で、中国、ニュージーランド、中国人のお手伝いさんがわりに面倒をみてくれるものの、両親の離婚後は家や国を行ったり来たりさせられていたのです。
やがて、ポピーさんの夫は躁鬱病を患い、仕事を失い、攻撃的な態度をあらわにする様になるのです。
しかもそれは、労ってもらえるはずの新妻、そして愛する夫の為、その夫の連れ子達の為、精一杯を尽くしているポピーさんにだけ見せるものでした。
でも、ポピーさんは、いつか変わるかもしれない、子どもが生まれれば平和が戻るかもしれないと願いつつ過ごすのでした。
言葉の暴力に耐えるしかなかった、でもそれは自分で選択していたんだ という彼女の言葉が印象的でした。
こんな状況に止まるポピーさん。
実は、そこにはもう一つ大きな理由があって、ニュージーランドに残りたい、何よりも離婚して日本の父親に会うのを避けたいというものでした。
ポピーちゃんのお父さんは、薩摩男児で口数が少なく、攻撃的。
家族で口論になるのを避けるためポピーちゃんは本音は見せず、父親の顔色を見ながら立ち振る舞いを考える少女でした。
3回のIVF、不妊治療と実らぬ成果。
夫の病気は鬱にだけではなく糖尿病も抱え益々成功率が厳しいと医者にさえ言われるほどでした。
そこから、更にポピーさんの葛藤は続き、夫が単身帰郷してしまい、夫がいない家の中では、娘と3人。しかも自立してきた娘達とは会話も少なくなり、
その後、お母様が病気になったのを機に日本への帰国を余儀なくされ、念願のお母様に会う事ができたのも束の間、その後お母様は他界してしまいあろうことか一番避けてたお父様との二人だけの生活がはじまる訳です。
そして、お父様と当時の思いを語り合えるほどの関係になったポピーさんは、父親を許したら、ようやく男性への嫌悪感がと消えたのだと話していました。
そして54歳での新しい夫との出会いそして結婚。
本当に幸せ。いつまでも、一緒に自家栽培したものを食べて一緒に飲んで、ありのままの自分で居られるこの関係が幸せって言ってました。
この彼と巡り会えたのは、こうしてポピーさんが人生の大きな課題を一つづつ、逃げずに全部乗り越えたからこそたどり着いたものだと私は確信します。
ポピーの花言葉、陽気で優しい。これは、もう私からの言葉は何もいらず、彼女の容姿から滲み出ていると思います。
子どもが大好きで大好きで、保母さんに憧れる程で、それでも子どもができなかった過去の私は、不妊治療の真っ只中はもう、神様の意地悪って自分の運命を恨んだものでした。
でも、いまこうして当時の話をポピーちゃんとふりかえってみると
似たような、人生のタイミングにいる二人に、一緒に、この一番辛い時期を乗り越えなさいって。
日常の生活をしていたら味わえない程のポピーさんとの絆、こんな大きな神様からのギフトを頂いていたのだとつくづく感じました。
あの時の、涙、怒り、喜びを共にしてくれて本当にありがとう。