Top
2022年10月 – 100のはな
fade
0
archive,date,eltd-core-1.2.1,flow-ver-1.7,,eltd-smooth-page-transitions,ajax,eltd-blog-installed,page-template-blog-standard,eltd-header-type2,eltd-fixed-on-scroll,eltd-default-mobile-header,eltd-sticky-up-mobile-header,eltd-menu-item-first-level-bg-color,eltd-dropdown-animate-height

10月 2022

元看護婦として、腸活専門家として女性を見たとき

梅さんは、私が10年以上抱えていた腸の悩みを解消に導いてくれた先生なんです。

どこに行っても治らなかったあのお腹が、ようやく動き出したのは奇跡でした。

だから、恩人なんです。

でも今回こうして梅ちゃんとお話ししてみて私もう一つ梅ちゃんに救われていたんだなと改めて感じた事があったんです。

長年の欧米生活から戻り、すっかり思考も変わっていく中で日本との文化の違いに違和感を感じていた頃があったんです。

職場でも、家庭内でも英語を話したり、母も英語を喋るという環境にいましたので。

そんな中、毎度毎度、定期的に梅ちゃんの元に通っていく中で、彼女と会話しているとなんかこう、懐かしさでもあり、心が温かくなるものでした。

ビデオの中で、梅ちゃんが言っていた事。

鍵っ子として育ちその後、両親の離婚により、子どもの梅ちゃんはどちらにつくのか選ばなければならなかった。こんな悲しい事があるのかと思った、と。

もし自分に子どもがいたのなら、自分の子どもにも同じ思いをさせてしまうのかもしれない、という恐れがどこかにあって、もしかしたらそれが無意識的に子どもがいないという今の事実を作り上げているのかもしれないとおっしゃってました。

看護婦さんとして、出産の現場にいた時に、思った事。

出産で何よりも労られるべく人は、赤ちゃん以上に、出産という偉業をされたお母さん自身ではないだろうか、と強く感じたとおっしゃってました。

夢は?と聞くと。

クライエントさんの、腸活のお手伝いをしていきたい。そしてそのサポートできる人材を育成していきたいと。

これ、どれをとっても、梅ちゃんっていつでも他者への思いやりを根本に自身の幸せを生み出す方なんですね。

で、どうもその背景にはご自身の幼少期に隠されているんだとインタビューの中で感じました。

鍵っ子で誰もいないご自宅に帰宅される寂しさ、ご両親が離婚された時の悲しさ、それを忘れさせてくれる近所の方々からの温かい食卓へのもてなし。

子どもがいないおばさんに将来を安心させてあげる約束、そしてこの関係があるからこそ、自分も将来子どもがいなかったとしてもなんとかなると思える人への信頼。

そんな、思いやりは人を受け入れる心も広くなるものですね。

私が、西洋発想で物を言ってしまい周りをびっくりさせちゃった時、時間を間違えて来てしまったクライエントさん対して、どんな時も梅ちゃんってま、いっかーあっはっはてその人をそのまま受け入れる人なんですね。

なんかこう、小さい頃に経験したおばあちゃんの優しさって感じで。無条件に孫の幸せを喜ぶみたいなね。

でもその反面で、上京して若い内からがむしゃらになって働いて今の東京の一等地にサロンを構え人気店になっている頑張りも、これもまたみんな原点は、梅ちゃんの周りにあった思いやりの心で支えあっている福井のコミュニティーが背景にあるからなんだって思いました。

さらに、梅ちゃんのセッションもまた、すごい。

何かこう、手の技術とプラスして、クライエントさん一人一人に本当によくなってもらいたいという思いがのっかって来る感じなんです。

実際、梅ちゃんのセッションはクライエントさんの腸と直接コミニュケーションをとったりしてね、最近悲しい事あった?とかイライラしてない?なんてね。

こんな思いやりもあり強さも持つ梅さんとお付き合いしていく中で、

日本に戻って、都心でマンション暮らしで希薄になっていた声の掛け合いや、東京でも昭和には根付いていたふれあいの文化を思い出させてくれました。

梅の花

日本人だったら、これをみると厳しい冬がそろそろ終わり穏やかな春がくるとワクワクする物ではないかしら。梅ちゃんの存在もそんな感じです。

梅ちゃんのお役目は腸活だけにとどまらず、コミュニテーやイベントを作って、この薄くなってしまった人との繋がりや、特に東京で、蘇らせてくれる方なんだなって改めて感じました。

だから、梅ちゃんの企画するイベントは常に満席で、笑いで絶えないわけです。

Set of blooming red plum branches

アジア系オーストラリア人、レズビアン、金融業あらゆる差別を乗り越えて。

ビオラのお母様は、子どもは欲しくなかった方。

義父に言われ、仕方なくビオラを出産します。

そして、その思い通り、ビオラの母親は出産後もその母性愛が出ることもなく自分の高級服は変えても娘の制服代は娘の貯金箱から集めたお金で古着を買うほどでした。

両親ともに、経営していて仕事が忙しく子育てもビオラのおばあちゃん任せ。

その上、ビオラは様々な差別を経験して行くことになるのです。

中学校の頃、アジア系オーストラリア人だったビオラは高学年の男子に

国に帰れ と、言われたり。

大学時代に、自分はレズビアンだと認識するとその世界をもっとよく知るためにそういったグループに参加する様になりました。

ところが、彼女の成り立ちがいわゆる典型的なレズビアンの格好ではなく、サラサラヘアーに正統派。これがレズビアングループから、偏見を抱かれそこでも差別を受けます。

そして、金融の仕事につけば、多くの金持ちからレズビアンというだけで差別を受けたり。

そして、自分がオーストラリアで経営するレストランでは、オーナーで流暢な英語を話す

彼女には注文がこず、その国では外国人のはずの英語が外国アクセントのスロバキア人のパートナーにばかりお客さんは話しかけるのです。

そして、遂にそのパートナーとスロバキアに移住したら今度は、家族が全てという文化の移民、そして同性婚について理解が少ない国で、少数派の生き方を経験するのです。

そんな、両親から子育てもしてもらえず、差別、偏見、少数派として生きてきた半生ですが。

ビオラさんは、はっきりと今でも覚えている事。

それは、5歳の少女だったビオラさんが一人部屋でいる時にはっきり抱いたセルフヘルプ。

私は、価値がある。私には、価値があるだ。

間違っているのは、私ではなく。彼らだ。私を正当に育ててくれていない彼らに問題があるのだ。

と、確信したのです。

その確信が、その後のこういった社会からの差別に立ち向かえた強さでした。

そして、それを支えるかの様にできた心の中のパンドラのボックス。

自分が感じた様々な辛い事、悲しい事、悔しい思い、こんな感情という感情を全て想像の箱の中に入れて、そして鍵をかけて2度と見なくてもいいように地面に埋め込んだのです。

これは、乾いた彼女の心を上手く社会生活をこなすのに、もってこいの方法でした。

ところが、そんな方法が長続きするはずもなく。。

ある日、あの育ての親おばあさんの臨終で、手を握った瞬間、まるで凍結してしまった心、そして感情が一気に込み上げて解凍が始まったのです。

おばあちゃんは、私をいつも愛していてくれていた。

それは、おばあちゃんだけではなかった。

両親が育ててくれなかった代わりに、自分の子どもと同様に泊まらせてくれたり、食事を作り、正月やクリスマスでも受け入れてくれた他人の家族達。

差別を受けたオーストラリアだったけれども、アジア人としてアジアの完璧を求める文化から解放の文化で伸び伸び育つことができたのもオーストラリアからもらった大きなギフトの一つ。

何から何まで、感謝が始まったのです。

感謝がはじまると、子どもがいない自分でも、まるで子どもを育てるかの如く、猫にも植物にも育てる喜びを感じ、忙しい子どもがいる親に変わって子どもがいない私がこの社会にできることは何だろうと感じれる様になったのです。

そして、そんな子育てに疲れちゃった女性達などをサポートする温泉付きの施設だったり、コミニュテーを作る夢を抱く様になるのです。

私の知るビオラは、ビジネスセンスが長けていて、何をやってもビジネスを成功させちゃう能力があるのです。

だから、これが彼女の夢だけに止まらないものだろうと私は確信しています。

ビオラの花言葉

私の事を思って。

こんな風に、思いつづけた幼少期。そのビオラが欲しかったものは、それは、母や父からの愛でもあり、同級生からの理解でもあり、社会からの受け入れでもあったのです。

でも、こんな経験をしたからこそビオラがまた新たに目指すビジネスには、愛が欲しい子供、自分を思って欲しい大人で賑わうのではないでしょうか。

そしてね、このビジネスセンスこそ、ご両親から頂いた大きな彼女のスキルだと私は思いました。

日本に帰りたくないからしがみついた結婚。。。

ポピーさんが、ニュージーランドに住んでいた時の話。

中国人の旦那さんが、ポピーさんを向かい入れ、思いもよらぬ二人の女の子の母親になったポピーちゃんは、この新しくできた家族の心の距離、そして娘さんたちが失ってしまった大人への信用を再構築しているようでした。

実の母親が、仕事で忙しくなったので娘たちがいらなくなったというのです。

はい、どーぞ、って。

しかも、家の中での言語は中国語。ポピーさん一人、何もわからず仕舞いでした。

子どもたちは、大人の都合で、中国、ニュージーランド、中国人のお手伝いさんがわりに面倒をみてくれるものの、両親の離婚後は家や国を行ったり来たりさせられていたのです。

やがて、ポピーさんの夫は躁鬱病を患い、仕事を失い、攻撃的な態度をあらわにする様になるのです。

しかもそれは、労ってもらえるはずの新妻、そして愛する夫の為、その夫の連れ子達の為、精一杯を尽くしているポピーさんにだけ見せるものでした。

でも、ポピーさんは、いつか変わるかもしれない、子どもが生まれれば平和が戻るかもしれないと願いつつ過ごすのでした。

言葉の暴力に耐えるしかなかった、でもそれは自分で選択していたんだ という彼女の言葉が印象的でした。

こんな状況に止まるポピーさん。

実は、そこにはもう一つ大きな理由があって、ニュージーランドに残りたい、何よりも離婚して日本の父親に会うのを避けたいというものでした。

ポピーちゃんのお父さんは、薩摩男児で口数が少なく、攻撃的。

家族で口論になるのを避けるためポピーちゃんは本音は見せず、父親の顔色を見ながら立ち振る舞いを考える少女でした。

3回のIVF、不妊治療と実らぬ成果。

夫の病気は鬱にだけではなく糖尿病も抱え益々成功率が厳しいと医者にさえ言われるほどでした。

そこから、更にポピーさんの葛藤は続き、夫が単身帰郷してしまい、夫がいない家の中では、娘と3人。しかも自立してきた娘達とは会話も少なくなり、

その後、お母様が病気になったのを機に日本への帰国を余儀なくされ、念願のお母様に会う事ができたのも束の間、その後お母様は他界してしまいあろうことか一番避けてたお父様との二人だけの生活がはじまる訳です。

そして、お父様と当時の思いを語り合えるほどの関係になったポピーさんは、父親を許したら、ようやく男性への嫌悪感がと消えたのだと話していました。

そして54歳での新しい夫との出会いそして結婚。

本当に幸せ。いつまでも、一緒に自家栽培したものを食べて一緒に飲んで、ありのままの自分で居られるこの関係が幸せって言ってました。

この彼と巡り会えたのは、こうしてポピーさんが人生の大きな課題を一つづつ、逃げずに全部乗り越えたからこそたどり着いたものだと私は確信します。

ポピーの花言葉、陽気で優しい。これは、もう私からの言葉は何もいらず、彼女の容姿から滲み出ていると思います。

子どもが大好きで大好きで、保母さんに憧れる程で、それでも子どもができなかった過去の私は、不妊治療の真っ只中はもう、神様の意地悪って自分の運命を恨んだものでした。

でも、いまこうして当時の話をポピーちゃんとふりかえってみると

似たような、人生のタイミングにいる二人に、一緒に、この一番辛い時期を乗り越えなさいって。

日常の生活をしていたら味わえない程のポピーさんとの絆、こんな大きな神様からのギフトを頂いていたのだとつくづく感じました。

あの時の、涙、怒り、喜びを共にしてくれて本当にありがとう。