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アジア系オーストラリア人、レズビアン、金融業あらゆる差別を乗り越えて。

ビオラのお母様は、子どもは欲しくなかった方。

義父に言われ、仕方なくビオラを出産します。

そして、その思い通り、ビオラの母親は出産後もその母性愛が出ることもなく自分の高級服は変えても娘の制服代は娘の貯金箱から集めたお金で古着を買うほどでした。

両親ともに、経営していて仕事が忙しく子育てもビオラのおばあちゃん任せ。

その上、ビオラは様々な差別を経験して行くことになるのです。

中学校の頃、アジア系オーストラリア人だったビオラは高学年の男子に

国に帰れ と、言われたり。

大学時代に、自分はレズビアンだと認識するとその世界をもっとよく知るためにそういったグループに参加する様になりました。

ところが、彼女の成り立ちがいわゆる典型的なレズビアンの格好ではなく、サラサラヘアーに正統派。これがレズビアングループから、偏見を抱かれそこでも差別を受けます。

そして、金融の仕事につけば、多くの金持ちからレズビアンというだけで差別を受けたり。

そして、自分がオーストラリアで経営するレストランでは、オーナーで流暢な英語を話す

彼女には注文がこず、その国では外国人のはずの英語が外国アクセントのスロバキア人のパートナーにばかりお客さんは話しかけるのです。

そして、遂にそのパートナーとスロバキアに移住したら今度は、家族が全てという文化の移民、そして同性婚について理解が少ない国で、少数派の生き方を経験するのです。

そんな、両親から子育てもしてもらえず、差別、偏見、少数派として生きてきた半生ですが。

ビオラさんは、はっきりと今でも覚えている事。

それは、5歳の少女だったビオラさんが一人部屋でいる時にはっきり抱いたセルフヘルプ。

私は、価値がある。私には、価値があるだ。

間違っているのは、私ではなく。彼らだ。私を正当に育ててくれていない彼らに問題があるのだ。

と、確信したのです。

その確信が、その後のこういった社会からの差別に立ち向かえた強さでした。

そして、それを支えるかの様にできた心の中のパンドラのボックス。

自分が感じた様々な辛い事、悲しい事、悔しい思い、こんな感情という感情を全て想像の箱の中に入れて、そして鍵をかけて2度と見なくてもいいように地面に埋め込んだのです。

これは、乾いた彼女の心を上手く社会生活をこなすのに、もってこいの方法でした。

ところが、そんな方法が長続きするはずもなく。。

ある日、あの育ての親おばあさんの臨終で、手を握った瞬間、まるで凍結してしまった心、そして感情が一気に込み上げて解凍が始まったのです。

おばあちゃんは、私をいつも愛していてくれていた。

それは、おばあちゃんだけではなかった。

両親が育ててくれなかった代わりに、自分の子どもと同様に泊まらせてくれたり、食事を作り、正月やクリスマスでも受け入れてくれた他人の家族達。

差別を受けたオーストラリアだったけれども、アジア人としてアジアの完璧を求める文化から解放の文化で伸び伸び育つことができたのもオーストラリアからもらった大きなギフトの一つ。

何から何まで、感謝が始まったのです。

感謝がはじまると、子どもがいない自分でも、まるで子どもを育てるかの如く、猫にも植物にも育てる喜びを感じ、忙しい子どもがいる親に変わって子どもがいない私がこの社会にできることは何だろうと感じれる様になったのです。

そして、そんな子育てに疲れちゃった女性達などをサポートする温泉付きの施設だったり、コミニュテーを作る夢を抱く様になるのです。

私の知るビオラは、ビジネスセンスが長けていて、何をやってもビジネスを成功させちゃう能力があるのです。

だから、これが彼女の夢だけに止まらないものだろうと私は確信しています。

ビオラの花言葉

私の事を思って。

こんな風に、思いつづけた幼少期。そのビオラが欲しかったものは、それは、母や父からの愛でもあり、同級生からの理解でもあり、社会からの受け入れでもあったのです。

でも、こんな経験をしたからこそビオラがまた新たに目指すビジネスには、愛が欲しい子供、自分を思って欲しい大人で賑わうのではないでしょうか。

そしてね、このビジネスセンスこそ、ご両親から頂いた大きな彼女のスキルだと私は思いました。

日本に帰りたくないからしがみついた結婚。。。

ポピーさんが、ニュージーランドに住んでいた時の話。

中国人の旦那さんが、ポピーさんを向かい入れ、思いもよらぬ二人の女の子の母親になったポピーちゃんは、この新しくできた家族の心の距離、そして娘さんたちが失ってしまった大人への信用を再構築しているようでした。

実の母親が、仕事で忙しくなったので娘たちがいらなくなったというのです。

はい、どーぞ、って。

しかも、家の中での言語は中国語。ポピーさん一人、何もわからず仕舞いでした。

子どもたちは、大人の都合で、中国、ニュージーランド、中国人のお手伝いさんがわりに面倒をみてくれるものの、両親の離婚後は家や国を行ったり来たりさせられていたのです。

やがて、ポピーさんの夫は躁鬱病を患い、仕事を失い、攻撃的な態度をあらわにする様になるのです。

しかもそれは、労ってもらえるはずの新妻、そして愛する夫の為、その夫の連れ子達の為、精一杯を尽くしているポピーさんにだけ見せるものでした。

でも、ポピーさんは、いつか変わるかもしれない、子どもが生まれれば平和が戻るかもしれないと願いつつ過ごすのでした。

言葉の暴力に耐えるしかなかった、でもそれは自分で選択していたんだ という彼女の言葉が印象的でした。

こんな状況に止まるポピーさん。

実は、そこにはもう一つ大きな理由があって、ニュージーランドに残りたい、何よりも離婚して日本の父親に会うのを避けたいというものでした。

ポピーちゃんのお父さんは、薩摩男児で口数が少なく、攻撃的。

家族で口論になるのを避けるためポピーちゃんは本音は見せず、父親の顔色を見ながら立ち振る舞いを考える少女でした。

3回のIVF、不妊治療と実らぬ成果。

夫の病気は鬱にだけではなく糖尿病も抱え益々成功率が厳しいと医者にさえ言われるほどでした。

そこから、更にポピーさんの葛藤は続き、夫が単身帰郷してしまい、夫がいない家の中では、娘と3人。しかも自立してきた娘達とは会話も少なくなり、

その後、お母様が病気になったのを機に日本への帰国を余儀なくされ、念願のお母様に会う事ができたのも束の間、その後お母様は他界してしまいあろうことか一番避けてたお父様との二人だけの生活がはじまる訳です。

そして、お父様と当時の思いを語り合えるほどの関係になったポピーさんは、父親を許したら、ようやく男性への嫌悪感がと消えたのだと話していました。

そして54歳での新しい夫との出会いそして結婚。

本当に幸せ。いつまでも、一緒に自家栽培したものを食べて一緒に飲んで、ありのままの自分で居られるこの関係が幸せって言ってました。

この彼と巡り会えたのは、こうしてポピーさんが人生の大きな課題を一つづつ、逃げずに全部乗り越えたからこそたどり着いたものだと私は確信します。

ポピーの花言葉、陽気で優しい。これは、もう私からの言葉は何もいらず、彼女の容姿から滲み出ていると思います。

子どもが大好きで大好きで、保母さんに憧れる程で、それでも子どもができなかった過去の私は、不妊治療の真っ只中はもう、神様の意地悪って自分の運命を恨んだものでした。

でも、いまこうして当時の話をポピーちゃんとふりかえってみると

似たような、人生のタイミングにいる二人に、一緒に、この一番辛い時期を乗り越えなさいって。

日常の生活をしていたら味わえない程のポピーさんとの絆、こんな大きな神様からのギフトを頂いていたのだとつくづく感じました。

あの時の、涙、怒り、喜びを共にしてくれて本当にありがとう。

血のつながった家族なんていない。でも私には仲間がいる。

若い蘭さんに将来子どもが欲しいですかと問うと、できれば誰かが産んでくれて、それでその子を育てるのなら良いけど、あんまり欲しくない、と。

なんで、女性だけが出産しなければんらないんだろうってね。

更に、元々結婚という概念も、恋愛は今一緒に居たい相手かどうか、先はわからないでも、今が大切で、家を借りるみたいに恋愛も年事に更新すれば良いと思う。それこそが、彼女にとっての結婚なんだとか。

蘭さんは、若くして東京の一等地にライブバーを構える経営者さん。

そんな蘭ちゃんのご家庭はどんなだったのか伺うと、

父と母はとても仲良くて、まるで恋人同士のようでした。

父はとても魅力的でモテる人でした。とおっしゃっていました。

そして、何より私両親に怒られた事が一度もないんです。学生時代に何をしても、両親はいつも私を信じてくれていました。

そんな、ご両親のもとで育った事でその後に東京の一等地でライブハウスを経営するまでになり、若いうちから経営者として大切な自己肯定感が育まれていたのかもしれませんね。

でも、その反面で。

蘭さんが10代の頃、お母様が他界してしまいます。

母親をなくすという悲しみ程辛いものは、経験したことがないと。

そして、その悲しみの中大好きなお父さんが男手で一つで蘭さんとお姉さんを育ててくださるのですが、そのお父様も、その後若くして他界してしまいます。

蘭さんには、お姉さんがいるのですがお姉さんとは性格が違うから距離を持って付き合うのがその関係を保てるんですと。

蘭さんは、血のつながった家族がいないと思うと孤独だし寂しいと言ってました。

いつも、頑張ってばっかりいる蘭ちゃんの姿しかみたことがなかったから、自分で孤独で寂しいですと言う蘭ちゃんをみて、何か安心を感じました。

蘭ちゃんは悲しみを乗り越えたんだって。

例えその経験は乗り越えることができない程辛いものだったとしても、蘭ちゃんがそれを自分の人生だと受け止めているのだと感じました。

自分の辛い事をこれが私の人生、運命ですと受け止めた時に人って強くなれると自分の経験から感じました。

結局、この子どもが欲しいと言う願いを持ち、それが叶わないくていつまでも悲嘆していた頃の私は、自分の人生に’子どもがいないなどという人生になるわけがないと思っていたわけです。

きっといつか諦めなければ、願いは叶うのだと。

でも、私の場合は、この思いがある以上、叶っていない間、満たされた思いを経験することはできなかったのです。

蘭ちゃんが、若い頃、親御さんを失ったつらさを

この辛い経験以上の辛い事はないので、それが今の原動力になっていますとおっしゃっていたその強い心は、親御さんからの最後の大きなギフトなのでしょうね。

この強さを持った時、想像以上の自分を知って、自由自在の境地になれるのだと思うからです。

蘭さんには、大きな仕事があり、ご家族を早くに失った蘭ちゃんにしかできない事。

血のつながりではなく、心の繋がり、そして人類愛のような大きな愛と信頼で蘭さんがいるその場所にコミニティーを作り、そこの子供たちをまた蘭ちゃんのような優しく強い心を育て世に送り出す。

いろんな環境にいる子供たちが本当に頼れる人。

それは、私だってとっくに若い頃に、両親いないのよ!なんて蘭ちゃんの元気で明るい笑顔で言われたら誰でも大きく励まされる事でしょう。

これは、若い頃にあれだけの辛い経験をした蘭ちゃんだからこそできるものですね。

蘭の花言葉

幸福が飛んでくる

若い内から、人気店の経営者になった蘭ちゃんの夢はけして優雅に暮らしたい。贅沢をしたいと言うものではなく、大自然の中に山を買いたい。家を買いたいと言うもの。

それも、自分だけが優雅に暮らしたいという発想のもとではなく、様々な環境にいる子供たちそして大人にも利用してもらうコミニュテーを作るという願い。

そして、その子供たちが世に出た後、道に迷ったり、辛い事が会った時にはいつでも帰れる場所として、クラブバーや立ち寄れる場所を提供して待っている。

私も、いつかそこを尋ねていきたいと思います。